サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日に、天皇皇后両陛下御臨席の下、政府主催「主権回復の日」式典が開催されました。
安倍首相は、式典の式辞の中で、
昭和天皇御製「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」を詠まれ、日本が主権を回復するまでの苦難の足跡を振り返り、日本の主権回復と引き換えに、米国の施政下におかれた奄美、小笠原、沖縄に言及し、日本に復帰を果たすまでの辛苦に思いを寄せ、そしてこの日を未来へ向かって希望と決意を新たにする日とすることを宣言しました。
【主権回復の日】首相式辞全文「日本を良い美しい国にする責任」2013.4.28 22:16
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本日、天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、各界多数の方々のご参列を得て、主権回復・国際社会復帰を記念する式典が挙行されるにあたり、政府を代表して式辞を申し述べます。
61年前の本日は、日本が自分たちの力によって再び歩みを始めた日であります。サンフランシスコ講和条約の発効によって主権を取り戻し、日本を日本人自身のものとした日でありました。その日から61年。本日を一つの大切な節目とし、これまで私たちがたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたいと思います。
国敗れ、まさしく山河だけが残ったのが昭和20年夏、わが国の姿でありました。食うや食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた初めての、そして最も深い断絶であり、試練でありました。
そのころのことを亡き昭和天皇はこのように歌にしておられます。
「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」
雪は静謐(せいひつ)の中、ただしんしんと降り積もる。松の枝は雪の重みに今しもたわまんばかりになりながら、じっと我慢をしている。我慢をしながら、しかしそこだけ目にも鮮やかに緑の色を留めている。私たちもまたそのようでありたいものだという御製(ぎょせい)です。
昭和21年の正月、日本国民の多くが飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬を、ひたすらしのごうとしていたときに詠まれたものでした。多くの国民において心は同じだったでしょう。
やがて迎えた昭和27年、主権が戻ってきたとき、私たちの祖父、祖母、父や母たちは何を思ったでしょうか。今日はそのことを国民一人一人深く考えてみる日なのだと思います。
61年前の本日、国会は衆参両院のそれぞれ本会議で主権回復に臨み4項目の決議を可決しております。
一、日本は一貫して世界平和の維持と人類の福祉増進に貢献せんことを期し、国連加入の一日も速やかならんことを願う。
二、日本はアジアの諸国と善隣友好の関係を樹立し、もって世界平和の達成に貢献せんことを期す。
三、日本は領土の公正なる解決を促進し、機会均等、平等互恵の国際経済関係の確立を図り、もって経済の自立を期す。
四、日本国民はあくまで民主主義を守り、国民道義を昂揚(こうよう)し、自主、自衛の気風の振興を図り、名実ともに国際社会の有為にして責任ある一員たらんことを期す。
以上、このときの決議とは、しっかりと自立した国をつくり、国際社会から敬意を集める国にしたいと、そういう決意を述べたものだといってよいでしょう。
自分自身の力で立ち上がり、国際社会に再び参入しようとする日に、私たちの先人が自らに言い聞かせた誓いの精神が、そこにはくみ取れます。
主権回復の翌年、わが国の賠償の一環として当時のビルマに建てた発電所は、今もミャンマーで立派に電力を賄っています。主権回復から6年後の昭和33年には、インドに対し戦後の日本にとって第1号となる対外円借款を供与しています。主権回復以来、わが国が東京でオリンピックを開催するまで費やした時間はわずかに12年です。自由世界第2の経済規模へ到達するまで20年を要しませんでした。
これら全ての達成とは、私どもの祖父、祖母、父や母たちの孜々(しし)たる努力の結晶にほかなりません。古来、私たち日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈ってきた豊かな伝統があります。その麗しい発露があったからこそ、わが国は灰燼(かいじん)の中から立ち上がり、わずかな期間に長足の前進を遂げたのであります。
しかしながら、国会決議が述べていたように、わが国は主権こそ取り戻したものの、しばらく国連に入れませんでした。国連加盟まで、すなわち一人前の外交力を回復するまで、なお4年と8カ月近くを待たねばなりませんでした。
また、日本に主権が戻ってきたその日に奄美、小笠原、沖縄の施政権は日本から切り離されてしまいました。とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が最も長く日本から離れたままだった事実であります。
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。沖縄の本土復帰は昭和47年5月15日です。日本全体の戦後が初めて本当に終わるまで、主権回復からなお20年という長い月日を要したのでありました。沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなしません。私は若い世代の人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えようと思います。
わが国は再び今、東日本大震災からの復興という重い課題を抱えました。しかし同時に、日本を襲った悲劇に心を痛め、世界中からたくさんの人が救いの手を差し伸べてくれたことも私たちは知っています。戦後、日本人が世界の人たちとともに歩んだ営みは、暖かい、善意の泉を育んでいたのです。私たちはそのことに深く気付かされたのではなかったでしょうか。
中でも米軍は、そのトモダチ作戦によって、被災地の人々を助け、汗と、時として涙を共に流してくれました。かつて熾烈(しれつ)に戦った者同士が心の通い合う、こうした関係になった例は、古来まれであります。
私たちには世界の行く末に対し、善をなし、徳を積む責務があります。なぜなら、61年前、先人たちは日本をまさしくそのような国にしたいと思い、心深く誓いを立てたに違いないからです。ならばこそ、私たちには日本を強く、たくましくし、世界の人々に頼ってもらえる国にしなくてはならない義務があるのだと思います。
戦後の日本がそうであったように、わが国の行く手にも容易な課題などどこにもないかもしれません。しかし、今61年を振り返り、くむべきは、焼け野が原から立ち上がり、普遍的自由と民主主義と人権を重んじる国柄を育て、貧しい中で次の世代の教育に意を注ぐことを忘れなかった先人たちの決意であります。勇気であります。その粘り強い営みであろうと思います。
私たちの世代は今、どれほど難題が待ち構えていようとも、そこから目を背けることなく、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、日本を、私たちの大切な国を、もっと良い美しい国にしていく責任を負っています。より良い世界をつくるため進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が私たちにはあるのだと思います。
本日の式典にご協力をいただいた関係者の皆さま、ご参加をくださいました皆さまに衷心より御礼を申し上げ、私からの式辞とさせていただきます。
【主権回復記念日】政府主催式典と沖縄の反発を煽るメディア[桜H25/4/29]
天皇皇后両陛下お見送りの様子。感動します。
【快刀乱麻】主権回復記念日・政府主催式典に一言あり[桜H25/4/29]
小堀桂一郎先生、入江隆則先生とともに、16年間主権回復記念日国民集会を主催してこられた井尻千男先生の一言。
安倍政権下で初めて政府主催の主権回復記念式典が開催されたことを評価しつつ、天皇皇后両陛下の御言葉がなかったことが残念とコメントされています。
井尻先生が書かれたフリップの内容は以下のとおりです。
<政府主催の記念行事>
1.天皇皇后両陛下のご臨席
2.昭和天皇の深い思い
3.近代史で最も大事な日
【戦後レジーム脱却】4.28 主権回復記念日国民集会[桜H25/4/29]
演者:
小堀桂一郎先生(主催者)
野田毅・衆議院議員(自民党)
高市早苗・衆議院議員(自民党)
平沼赳夫・衆議院議員(日本維新の会)
城内実・衆議院議員(自民党)
荒木和博氏
山谷えり子・衆議院議員(自民党)
杉原誠四郎氏
西田昌司・参議院議員(自民党)
宇都隆史・参議院議員(自民党)
赤池誠章・前衆議院議員(自民党)
西岡力氏
小池百合子・衆議院議員(自民党)
西村眞悟・衆議院議員(日本維新の会)
山田賢司・衆議院議員(自民党)
惠隆之介氏
井尻千男先生(主催者)
田母神俊雄氏
佐藤守氏
入江隆則先生(主催者)
マスコミは沖縄の抗議集会について報道していましたが、惠隆之介氏のお話を聞いて、沖縄には違った声もあることを知ってもらいたいと思いました。
20130428 惠隆之介講演
posted by setsu at 22:37| 東京 ☔|
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